鍼灸師 兼 トレジャーハンター
「お前のとーちゃん…可哀そうだな」と子供が、からかわれそうなタイトルになってしまった。
すでに鍼灸師になったが、治療の仕方、取り組み方に行き詰っている人たちや、これから「鍼灸師になりたい」という人たち。医師や薬剤師といった立場から東洋医学の関わる、様々な人が誠花堂に来られている。
話を伺っている内に、僕が世に語るべきは「古典を仕事に活用する醍醐味」だなと思い立ち、夜な夜なパチパチとタイプしている。
僕はいまだに、2000年も昔の医学を志向する、古くさい人間だ。
鍼灸師としての仕事をあえて一言で言えば、病める人体の調和を取り戻すことである。
『霊枢』や『傷寒論』といった古文書を片手に、インディジョーンズさながら、埋もれたる医方を求め、内的な旅を続けること。それは古代の医聖と時を超えた対話をすることでもあり、それが僕のライフワークである。その醍醐味を皆さんにも知ってもらいたい。
夢みたいな話だが、単なる懐古主義でも、ロマンティシズムでもない。こうして得られたものを活用して、実際に現実を変えていく事ができる。それが誠花堂がしている鍼だ。
現代医学の常識を超えた成果を生みたいなら、現代医学の枠を超えたところからヒントを得なくてはならない。だからといって、短絡的に「現代医学でなければ、なんでも良い」という訳ではない。そこで、最古の歴史がある鍼灸を掘り下げていく価値が出てくるという訳である。
時代遅れな鍼灸師ではあるが、ラリってる訳ではない。
古典に触れる価値
僕は、人類最高のアイデアは、もうすでに提出されていると思っている。『老子』や『論語』を代表とする、古代中国の知性の高さといったら、比類がない。『孫子』も何度もリバイバルされてはビジネスマンにも読まれている。ユングを心酔させたのは道教の内丹術であるし、禅がスティーブジョブズに多大なる影響を与えたというのも有名な逸話だ。このような例は枚挙に暇がない。
でもどうして、小難しそうな古典が人々を魅了して止まないのだろう。僕はこう感じている。
それは、読む人の力量によって、汲み上げられる水の「質」と「量」が変わることにある、と。
10代に読んだとき、30代で読んだときとでは、読み込める内容が変わってくる。
だから、「一度読んだら、●ook Off」とはならない。売らないでちょうだい。
摩耗することのない価値を古典は備えているのだから。
医学においても同様である。
『霊枢』や『傷寒論』といった医学古典は、例えば『孫子』に匹敵する実用価値がある。だが、あまり顧みられてないのが現状だ。それで、わざわざこんな事をツラツラと述べている。
伝統的手仕事としての鍼灸
古典という大地に埋蔵された叡智をどうにか引き出そうと、僕たちは日々、工夫を重ねている。手間暇がかかる作業で根気もいる。
だが、こうして”再発見”された技術は、古代の医聖からお預かりした賜物であり、「個人の所有物などではない」とことを声を大にして言いたい。ましてや僕が創始したのでもない。
一時の間、謹んで僕がお預かりし、人々のために使わせて頂いている。いずれば次世代に残してゆくべき宝である。
つまり鍼灸師は、歴史と文化を伝え残す仕事でもある。
古代の医術を掘り起こすということ。
それは無形の文化遺産を発掘するということ。
白い目と失笑を買うこともあるが、実は結構本気で言っている。
酔狂なる人生のささやかな醍醐味である。