河原燈観

『切脈一葦』からはどことなく、古方的な雰囲気を感じることができる。だが『切脈一葦』からの情報は少なく、著者である中茎謙(以下、号の暘谷で表記する)とは一体何者なのか、具体的にどのような治療をしていたのか、そもそも古方派と断定していいのかすら分からなかった。文献調査の結果、明確になったことをまとめ、『いやしの道機関誌16号』にて報告をした。本稿はその拙きダイジェスト版であるが、更新を重ねるうちに、最新の研究結果を反映させる結果となった。

1.中茎暘谷について

まずは『日本儒医研究』安西安周著の情報を基に経歴を述べる。
中茎暘谷(一七七六ー一八六六)は安永五年、常陽結城に生まれる。名は謙、字は恭卿、通称は元説(玄とも書く)、号は暘谷 塾名は晛斎。結城藩にて医官をしていた。九十歳没。儒学の系統としては考証学に属する。

かなり長生きされたことが分かる。
医家に生まれた暘谷は、そのまま医を生業とした。著書のひとつである『傷寒論正解』の序文によれば、「玄宅先生」にも医学を学んだことがわかるが詳細は不明。
暘谷の子に、震、楨、耒がおり、孫には剛、恭、熙、泰、真喜の名が残っている。『切脈一葦』の序文は息子の震によるもので、内容からするに、震も医業を継いでいると考えられる。孫の剛も校者として関わっていた痕跡があり、医業を継いでいたかもしれない。家系図を記すとこうなる。

?→中茎久説(絹水)→秀説(仁山)
    →謙(暘谷)→震、楨、耒? 
         →剛、恭、熙、泰? 

暘谷は江戸に遊学し、亀田鵬斎(一七五二‐一八二六年)の門下生として経史を学んだ。「玄宅先生」に医学を学んだというのも、この遊学中の事なのかもしれない。
ちなみに同時代に活躍した尾台榕堂は、暘谷の誕生より二十三年後、一七九九年に生を受けている。その榕堂を尾台浅嶽に紹介したのがまさに鵬斎であり、榕堂は鵬斎の息子、綾瀬(一七七八―一八五三年)に儒学を学んでいる。中茎暘谷と尾台榕堂には、亀田親子を通じて接点があった。
また、周易を縄墨として、儒と医を貫かんとする暘谷の立場は、まさに儒医一貫のそれであったといえる。

2.著書について

医学書、儒学書と共に著述は多い。『方極考釈義』、『医断考』などの著作もあり、吉益東洞(一七〇二-一七七三)が与えた当時の影響の大きさが伺い知れる。

著述一覧

儒者としての書には、『大学私言』『中庸式』『中庸私言』『論語私言』『帝典正解』があり、他に『假名物語』がある。校者には濵名元和、中山鱗仙、大月良輔、飯田昌貞の名がある。

現在、閲覧可能な医学書については『切脈一葦』『傷寒論正解』『扁鵲伝正解』『證法格』『聖聖一揆』『方極考釈義』がある。
『素問正素』『傷寒論弁誤』『弁難経』『温疫論評』『薬徴考』『医断評』『冩形一葦』『金匱要略正解』『晛齊謾筆』に関しては未見のままである。特に『冩形一葦』は注目である。ご存知の方は情報を寄せられたい。

『聖聖一揆』『傷寒論正解』『方極考釈義』は共に、『臨床漢方処方解説 第五冊』 (オリエント臨床文献研究所)に収録。『証法格』は、『臨床漢方診断学叢書 第一四冊(問診書一)』(同社)に収録。『切脈一葦』『傷寒論正解』『扁鵲伝正解』に関しては、デジタルアーカイブとして「早稲田大学古典藉総合データベース」、「京都大学蔵書検索Kuline」から閲覧できる。

中茎暘谷 代表的著述の発刊と年表

中茎暘谷 誕生     安永五年 一七七六年 常陽結城

『扁鵲伝正解』出版 文政六年 一八二三年 四七歳
『傷寒論正解』出版 文政 九年 一八二六年 五〇歳
『切脈一葦』出版  天保 三年 一八三二年 五六歳
『方極考釈義』天保一二年(?)一八四一年 六五歳
『証法格』  天保十三年    一八四二年 六六歳
       :
      ????
       :
 九〇歳没  慶応二年  一八六六年

3.採用した治療法

『聖聖一揆』によれば湯液を主としつつ、鍼灸も行っていた様子が見て取れる。使用した薬方は、傷寒金匱の処方を中心としながらも後世方も用いた。

とにかく、暘谷は形のあるものや、表層的なものに捉われることを激しく拒む。その傾向は脈診法のみならず、診察法全体にまで及んでいる。
古方も後世方も鍼灸も用いたのは、その傾向がそのまま、治療法にまで反映された結果なのであろう。それは暘谷の気質から考えると、ごく自然な帰結であったと思える。つまり「これが古方」、「これが後世」と門切り型な形式主義に陥ることは、暘谷が最も嫌うだからである。

4.吉益東洞への評価と批判

暘谷の著書を見ていると、様々な所で東洞の名が話題として出てくる。例えば『薬徴』や『方極』を生み出した偉業を讃え、古今和漢の豪傑と一応は評してみせている。東洞の医を否定するものではないが、言葉を補うという形で持論が述べられている。李朱医学全盛の世にあって、その行き過ぎを是正すべき宿命を負って登場した万病一毒論であったが、あまりに革新的すぎたこと。その歪みを矯正するために極端なことを言わざるを得なかった事情を汲みつつも、既存の医学観をあまりにも破壊しすぎてしまったことを指摘している。暘谷が問題視していたのは、東洞の医法ではなく、その表面的な模倣者たちによる弊害。つまり、当時蔓延っていたという汗吐下の乱用である。

そもそも『薬徴』が完全ではないこと、東洞も丸散法を使用していた事実を指摘し、傷寒金匱に盲信・固執することを是としない。このような批判の目的は、東洞の言葉を金科玉条にして軽々しく模倣する風潮の是正にあった。

こんなことを数冊にも渡って、何度もわざわざ述べねばならなかった。この事は、東洞が及ぼした社会的な影響の大きさを物語っている。

5.人物像について

これは筆者が調べている内に自ずと浮かび上がってきた人物像である。暘谷は代々の医家の生まれであり、地方の一医官に過ぎなかったとはいえ、多数の著書を手掛け、門人も少なくなかったという事実があった。世の諸説を快刀乱麻に切り裂く暘谷の弁は、人々の耳目を多く集めたことだろう。
そういう一家言を持ち、また、自身を張仲景・吉益東洞と比肩する存在である考えていたふしもある。そういう、並々ならぬ自負と気概を持つ人であった。東洞を意識し尊重しつつも、都で一世を風靡していた「吉益家一派」に関しては冷ややかに見つめ、距離を置いていたように思われた。

6.暘谷は古方派の医師か

安西安周氏の分類によれば、「法においては『傷寒論』を主とし、『内経』を従とし、方においては古方を主として後世を従とするもの」を折衷派と定義している。後藤艮山、香川修庵、永富独嘯庵は古方派ではなく折衷派に分類されている。この定義に拠るならば、暘谷も折衷派に含まれる気がするが、暘谷は未分類のままになっている。

暘谷が示そうとした世界とは、いわば上古の医法である。それは先天の領域に属する情報である。それは明文化される前の医学の原型である。「道の道とすべきは常の道に非ず」である。先天の領域とは、無形の世界である。よって、それは常に逆説的な形でしか示すことができない。そのため、表現方法としては常に否定的で、排他的にならざるを得ない。その点で禅や神仙道に似た薫りがあり、古方に近いのもそのためだろう。
暘谷の性格を考えると、そういう棲み分けやレッテルは好まない。自身が後世派、古方派かなどという問題に関してはどちらでもないと答えるかもしれない。
後世派は複雑怪奇にし過ぎたがために。古方派は簡素化しすぎたがために実用を離れていったというのが、陽谷の見解である。ならば、自身の医術はその中庸を行くものであったと思われる。

7.おわりに

『切脈一葦』と中茎暘谷について知る事から始まったこの小論文は、ここで終わりとなる。当初の疑問を、ある程度は明らかにする事ができたと思う。
意外であったのは、『周易』に拠っていた事実である。一体なぜ『周易』なのだろう。儒と医、二つを一元的に捉えたいと願うならば、なるほど六経の中では、『周易(易経)』が適当なのかも知れない。だがそれが果たして臨床上、どのくらい妥当であったのか。また、その試みは、儒医全体からして普通の事なのか、特異なことなのか。今回の小論文では、それらの新しい疑問を生みだすに留まり、今後の課題として残った。

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最後になりますが、貴重な助言をして頂いた横田観風先生と、供に九州の会を支え、いつも適切な指摘をしてくれる養母忠観氏と会の皆様にお礼を申し上げて結びとさせて頂きます。

参考文献
『日本儒医研究』安西安周著 谷口書店
『假名物語』『切脈一葦』『傷寒論正解』『扁鵲伝正解』『證法格』『聖聖一揆』『方極考釈義』