『切脈一葦』中茎暘谷

『切脈一葦』中茎謙より
(1776-1866)九十歳没。中茎 名は謙、字は恭卿、通称は玄説、号は陽谷 塾名は眼斎。『傷寒論正解』『証法格等』亀田鵬斎の門下。考証学に属す。儒者としての書には、『大学私言』、『中庸式』、『中庸私言』、『論語私言』、『帝典正解』などがある。

切脈一葦 序

脈は実事にして、脈・色・聲・形、四診の一なり。其の状、弁じ易からずと雖も、指下に心を留めて診するときは、其の掌の指が如し。唯だ、其の弁じ難き者は、脈状を全証に参考して、邪気の緩急と、精気の虚実とを弁ずるに在るのみ。
其の法、『素問』『霊枢』、及び扁鵲、仲景、二氏の書に備えると雖も、皆な分配家の為に、真面目を失する所多し。故に活眼を開いて、之れを観るに非ざれば、其の真面目を観ること能わざるなり。
晋の王叔和、之れを弁ずること能わず。唯だ、分配家の説を論じて、『脈経』を著す。
その書、詳らかなりと雖も、唯だ、文字の論じて、脈を論ぜず。

其の言に曰く、「脈理、精微、其の体、弁じ難く、弦・緊・浮・芤、展転相い類す。心に在りて了し易く、指下明らかにし難し。沈を謂うて伏と為すと、則ち方治永く乖き、以て緩を遅と為すと,則ち危殆、立に至る」と。

此の説、出てより以来、脈を診する者、脈状を明めること能わず。其の弊、遂に脈状は明らめ難き大業と為すに至る。是れ医門の大厄なり。

夫れ道は大路の如くにて知り易く、行い易し。况んや、脈は実事にして、顕然たる者。何ぞ指を以て、明らめ難きの理あらんや。唯だ、心に在りて了し難きのみなり。

弦・緊・浮・芤は、相い類すと雖も、重き脈は、其の状、分明にして診し易く、唯だ軽き脈のみ、相い類する者にして、其の証、異ならざれば、通じ用ゆと雖も、害あることなし。
伏は、沈の極みなり。遅は、緩の極みなり。故に沈・伏・緩・遅の分明ならざる者は、其の証に因って沈を伏とし、緩を遅と為すと雖も、亦た害あることなし。是れ指を以て、明らめ難きに非ざる所以なり。仮令、沈・伏・緩・遅、差わずと雖も、其の脈状を全証に参考するの時に当りて、若し、医の心動くときは、其の証を決断すること能わず。

況や、病毒に痞塞せられて、虚脈を現し、虚損の極み、反って実脈を現す者に於いては、脈状の疑似に論なく、医の心を以て取捨して、決断するに非ざれば、決断すること能わず。何ぞ唯だ、脈の一診に止まらんや。是れ心に在りて、了し難き所以なり。

手は心を得て能く探り、足は心を得て能く踏む。若し心、手足に非ざれば探れども、其の探る所を知らず。踏めども其の踏む所を知らず。今、其の探る所を知り、其の踏む所を知る者は、心、能く之れを明らめるを以てなり。王叔和、此の理を知らず。心と指とを分けて論ずること、一笑に余れり。又た、「指を以て診する法」は、世に伝えること能わず。

然るに今、其の伝えること能わざる法を、易しとし、其の伝えて教となすべき法を難しとす。思わざるの甚だしきなり。
又た、其の明らめ難き所の脈状を書に著して、教えを世に垂れんとす。是れ、全く己を欺き、人を欺くの甚だしきなり。歴代の医、之れを弁ずること能わず。却って、其の説を潤色して、脈の一診を以て、病を知るの法とす。是れ古人の脈法、廃して、唯だ、王叔和の脈法のみ。世に盛んなる所以なり。

家君、嘗て曰く、「凡そ、脈の変態多しと雖も、其の状、十余種に過ぎず。之れを形容する所の文字、多きのみ。王叔和の徒、之れを弁ぜず。形容する所の文字を以て、脈状の名と定めて、一字一字に註解を加えて、二,三十の脈状と為す。」(どこまでが引用文??)
是れ脈学、塗炭に堕ちる所以なり。謙、不敏と雖も、黙して之れを看過するに忍びず。因って『切脈一葦』を作ると。是れ家君が、文字の脈状を破って、脈状の文字を活用するの大意なり。

皆な、此の書は固より大河の一葦にして、脈学を尽すこと能わずと雖も、之れを以て学ぶときは、古人の流に泝かのぼるべし。古人の流れに泝かのぼるときは、古人と異なることなし。
古人、何人ぞ。今人、何人ぞ。唯だ、古人は志を厚くして、深く此の道を窮めるのみ。是れ今人の能わざる所に非ず。為さざる所なり。

若し今、志を厚くして、深く此の道を窮める者あらば、脈の診するに臨みて、何ぞ古人に譲らんや。若し、古人に譲る心有りて、脈を診するときは必ず、心に安んぜざる所あり。若し、心に安んぜざる所あるときは、必ず、其の病を決断すること、能わざるなり。

故に、脈を診するに臨みては、震が如き、浅劣の者と雖も、必ず、古人と異なることなき心を以て之を診す。況や、明達の人に於いては、震が古人と異なることなき心を以て、診すると同じからず。
必ず、古人と全く同じき者あらん。豈に唯だ、古人と全く同じきのみならんや。
必ず、古人の未だ発せざる所を発する者あらん。後生、畏るべし。是れ震が議する所に非ざるなり。

*天保辛夘春三月十五日 男震謹序

語註
*一葦・・・一枚の葦の葉。一艘の小舟。
*天保辛夘・・・天保二年。西暦一八三一年。五十五歳の時の著書ということになる。