巻の下

四診合断

脈色聲形の四診は、聖聖相伝える所の診法にして、『素問』『霊枢』『扁鵲伝』『傷寒論』『金匱要略』に詳らかなり。熟読して其の法を知るべし。惜しいかな。仲景氏の後、冩形を唱える人なく、其の法遂に廃して伝わらず。是れを以て世の医は専ら、『難経』の望聞問切を以て、四診と為し、病証を決断するの診法と為す。
然れども冩形の法なきとき、人身を按じて診するは、唯だ切脈の一法のみなり。然れば則ち切脈の一診を以て、病証を決断するより外なし。是れ王叔和の徒が切脈の一診を以て、病証を占するの法を唱える所以なり。

病証を問わずして、唯だ脈状を以て、遅脈を嘔吐とし、腹痛とし。微脈を白帯とし、淋瀝とするが如く、其の病証を占する者は「分配家の脈法」なり。
其の甚だしき者に至りては、一脈に数証を配当する者あり。『脈経』に所謂、浮脈を風とし、虚とし、嘔とし、厥とし、痞とし、脹とするの類、是れなり。

嘔吐、腹痛、或いは白帯、淋瀝等の病証有りて、其の脈状を診して浮なるときは「表」とし、沈なるときは「裏」とし、滑なるときは「実」とし、濇なるときは「虚」とするが如く、其の証の陰陽・表裏・寒熱・虚実を決断する者は「古えの脈法」なり。

「古えの脈法」は胃気の盛衰を診し、「分配家の脈法」は病毒の見証を診す。是れ雲泥の差なり。後世の医、是れを弁ぜず。唯だ、脈の一診を以て、万病の見証を一証一証に、何脈は嘔吐、何脈は淋瀝と云うが如く、診し分けんと欲す。何ぞ限りある脈状を以て、限りなき見証を一証一証に占し得るべきの理あらんや。仮令、脈の一診を以て、嘔吐腹痛などの病証を、占し得るといえども、治を施すに臨んで、決して益あることなし。如何となれば、嘔吐腹痛等の病証にも、皆な一証一証に、陰陽・表裏・寒熱・虚実の別あるを以てなり。故に今、治を施さんと欲する者は、古えの診法に従って、四診を合せて決断すべし。

譬えば、嘔吐腹痛を患える人有りて治を請うときは、必ず先ず問診を以て、病発よりの容体、飲食の多少、二便の利、不利、苦しむ所の緩急を、病者の問わざれば言わざる所まで、詳らかに問うて、其の病証・病因の大概を定め置いて、其の後に脈色聲形の四診を以て、其の病証の陰陽・表裏・寒熱・虚実を決断すべし。
脈浮にして発熱する者は、表証の嘔吐腹痛なり。脈滑にして腹中毒ある者は、裏証の嘔吐腹痛なり。脈沈濇にして厥冷する者は、虚寒の嘔吐腹痛なり。此の如くに決断して、治を施すべし。是れ、「古えの診法」なり。又た、脈色聲形の法を以て、診し難き者は、「意診の法」を以て診することあり。邪崇、狐惑、詐病、気癖の類は、脈色聲形の法に合せざる者なり。脈色聲形の法に合せざる者は、其の合せざる所に意を付けて診すべし。是れを「意診の法」と云うなり。

又た脈色聲形を待たずして、病証を診することあり。是れはその人を見ずして、唯だ其の人の容体を聞いて、己が学びえたる所の脈色聲形の法を以て、推し測りて、其の病証を決断するの診法なり。是れ「垣の一方の人を見る」と云う。是れを、「千里を出でずして決する者、至りて衆して曲に止まるべからず」と云うなり。是れは脈色聲形を用いずといえども、其の意を以て推し測りて診する所の者は、即ち脈色聲形なり。然れば則ち、四診の法を以て診するも、四診の法を離れて診するも、四診の法を推し測って診するも、皆な脈色聲形の診法なり。

脈色聲形を以て、四診と為すといえども、色聲の二診は、唯だ参考に備えるのみ。其の主とする所の者は、脈形の二診なり。脈形の二診といえども、唯だ脈を診して形を診せざるときは、脈の真仮を弁ずること能わず。唯だ形を診して脈を診せざるときは、形の真仮を弁ずること能わず。

譬えば、精気虚脱して沈微の脈を現す者を「真の沈微」とし、病毒に痞塞せられて沈微の脈を現す者を「仮の沈微」となるが如く、脈滑数にして服満痛する者を「真の服満痛」とし、脈沈遅にして服満痛する者を「仮の腹満痛」となるが如し。
脈は形を須て、病証を決断し、形は脈を須て、病証を決断すること此の如し。

然るに仲景氏の後、冩形の法、廃してより以来、冩形を以て診すべき病毒の所在に至る迄、皆な脈の一診を以て、診する事に為れり。是れを以て、脈と形と相須って診する所の脈法も、亦た遂に廃して、分配家の脈法となる。診法の塗炭に墜ちること、千有余年、之れを改める人なし。歎ずべきの甚だしきなり。

近世、我が朝の吉益為則、冩形の法を中興して、古えの如く脈色聲形、四診の法備わるといえども、脈色聲の三診は、皆な分配家の脈色聲にして、古えの脈色聲に非ず。故に冩形の法、建つといえども、参考に備え難し。是れ謙が此の書を著す所以なり。又た、冩形の法、建つといえども、為則一家の冩形にして、古えの冩形に合せざる所あり。是れ亦た、謙が『冩形一葦』を著す所以なり。未だ全く古えの診法を得ずといえども、脈形二葦を合わせて考える時は、粗古人の診法を見るべし。

又た、為則の所謂、「證を先にして脈を先にせず。腹を先にして証を先にせず」というは、時の弊を矯直する教えにして、聖聖相伝える所の教えに非ざるなり。必ず、此の教えに固執して、脈を後にすること勿れ。証は外証なり。腹は腹証なり。「冩形」は人身を按じて診するの統名にして、其の指す所、広しといえども、多くは腹診のことなり。『霊枢』に「尺を調う」と云う。『脈経』の序に「形証を候う」と云うも、皆な冩形のことなり。

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【談】
中茎謙の文章は親切というか、あまりに冗長なので、勉強会では読みやすいレイアウトにしてお配りしてきました。それでも、細かな点では理解しがたい箇所も残りました。

総括すると、この書は独自の脈診法を提示するという類の書ではありません。むしろ様々な脈診法や脈論が一般化し、常識となり、診察という行為自体の可能性を狭めている事実を示している。形式を超えていくこと、囚われを脱せと唱導することに目的があったようです。例えば「死脈=死」というような直線的な方程式ではなく、もっと多面的に生命状態は把握されるべきであること。その大事さを細やかに論じた書であったといえます。中茎の方法論は科学的であり、思考にも憶測が見られません。非常に醒めた医者であったことが伺えました。

後学の人達に対して言えることは、優先順位はやはり基本となる『霊枢』や『傷寒論』といった基本的な古典に学ぶことを先決すべきであり、なお余力有らば、様々な思い込みを解除するために触れてみる。そういう形であれば益があるといえそうです。