吉益東洞先生の菩提寺を訪ねる

東洋医学において、東洞翁ほど称賛と批判を受けた人物を他にいないかもしれません。吉益東洞(1702--1773)とは、漢方医学界にいわば革命を起こした人物です。
誠花堂の治療は、横田観風先生が提唱された万病一風論に基づいています。それは吉益東洞の万病一毒論、葦原検校の万病一邪論により浮揚された、より高次の治療法です。
ですから、誠花堂にとって吉益東洞は重要人物です。

吉益東洞

吉益東洞墓所

吉益東洞墓所

写真は、東洞先生の御宅があったことを示す石碑です。
子どもみらい館さんの側に、ひっそりと佇んでいました。

東洞先生のお墓は臨済宗東福寺の荘厳院にあります。
次いでそちらへも赴きました。

東福寺では月に一度、座禅会があるそうです。
せっかくなので、先輩の養母氏と共に早朝座禅会にも参加させて頂きました。

荘厳院内にある吉益家のお墓で、傍に吉益南涯のお墓もあります。もちろん、献花させて頂きました。中西深斎のお墓もそばにあると聞いていたのですが見つかりませんでした。

東福寺京都

京都

「理論一切不要」という吉益東洞の教えは、「教化別伝 不立文字」を唱える禅の匂いがします。

誠花堂は形のない治療がしたい

古方の精神とはなんだろうか

東洞は形骸化した既存のやり方(李朱医学)に異を唱え、廃れてしまったいにしえの医学を復興しようとしました。つまり、陰陽五行説の機械的な運用に陥ったり、病因論に拘泥することない、仲景の法をです。陰陽五行説が科学的な有効性を持つのは、その位相的な関係を示す時に限ってであり、「五臓(肝心脾肺腎)」と「五味(酸苦甘辛鹹)」と「五官(目舌口鼻耳)」いう別々のセットを無理に統合しようとすると、こじつけが生まれてしまう。人は「分からないものを分からないままにしておけない」所があり、理論的な空白があれば埋めずには居られない。それで理論的な整合性や美しさを求めるなかで、こじ付けが生まれ、実際から離れてしまう。また理論とは、筏のようなものです。川の向こう側に渡ることができたならば、もう筏は要りません。理論とは理論を超えた向こう側に渡るための船であって、一度、法を得ることができたならば、それまでの言葉は忘れても構わないものです。『燃えよドラゴン』ではブルースリーが月を指さし、指先を見つめていてはダメだというシーンがありますが、あれと同じです。

さて、こじ付けや憶測は、医学に反するものです。そんな危ういものであれば「一切不要」と東洞は言ったのです。そういった迷信が入り込むことのない、確かな診察法、治療方法を時代は求めていた。それに答えたのが吉益東洞なのだだといえます。

東洞の学派は一世を風靡し、日本漢方の礎となります。しかし、それもやがてひとつの権威となり、再び形骸化してゆくのを免れません。
東洞は「東洞のたぬきに化かされるな」と言い残したのは、後世の人が、上辺だけの理解に止まり、安易な盲信に陥らないためですが、歴史は同じようなことを繰り返しています。僕たちはここを越えていかねばならない。

現代の私たちは文字によってしかその医術を知る事ができない。
文字情報で残せることには限りがあります。だからこそ、

古方から入ったならば古方を超えて行く必要があると考えます。それは中医であっても同じでしょう。中医から入ったならば中医を超えて行かねばならない。

それぞれの枠にとらわれてはいけない。
歴史を踏まえねばならない。
批判精神なく、古典の世界に耽溺してはならない。
マニュアル本を宛てにして、思考停止に陥ってはならない。

そうして真に科学的な東洋医学にしていかねばならない。
それが僕が古方に学んだ精神の在り方です。

より高次元の治療に至るためには、そういった目に見える形、規格化された形を超えて行かねばならないと考えます。誠花堂は形のある治療を超えて、形のない治療がしたい。そして、それこそが東洞の行っていた医術の次元なのではないかと思うのです。