そう言った方がいました。私がもし癌になったとしたら、絶対にそんなことは言えない気がします。とても驚くような一言ですが、その方はこの様なお話をされました。「がんになることで、自分自身の在り方やこれまでの人生を見直すきっかけになった。そうして、今まで見えていなかったことに気づき、物事の感じ方捉え方が変わった。その過程はとても辛い部分もあったがそれが自分自身にとってよかった。もし癌にならなければ、これからもずっと考えもしなかったかもしれない」私の鍼灸施術でがんがどうなるわけでもなく、ただ、毎日のおつらい不調に寄り添う程度のことしかできません。ですが、鍼をさせて頂くなかで少しづつ語られる人生とエピソードがあり、僭越ではありますが、勘違いかもしれませんが、不調の根底にそれらが関わり合っているように感じさせられることもありました。完全とはいえませんが、事実としてその出来事以来、確かに検査結果は改善し、不調も減りました。不思議なことだと思います。チベット仏教では、臨終の期は悟りへの最後で最大のチャンスと見なしているそうです。そうして生前の行いや親子関係を振り返り、今世での執着や未練を解消して来世への門をくぐっていくと考えられているのだそうです。土壇場にでもならなければ、人生ギリギリの問題になど踏み込めないものだろうと思います。こころの奥底に固く閉じていた問題なんて、触れたくもないのが普通だからです。死を身近に意識することが、人生を本気で見つめるきっかけになりえるのかもしれません。一病息災でも述べましたが、ひとつの病を得ることで、物事の見え方が変わることがあります。それは病が治る・治らない等という事とは関係のない話です。「結局治らなければ意味がない」といわれれば確かにそれまでです。ですが病の捉え方ひとつで、その人のこころの世界の平穏には天と地ほどの差がでることがあります。そのことが殊の外大きな意味を持つことがあります。臨床に携わっていると様々ことを考えさせられる場面に出会う事があります。母娘の確執がほどけた時に、癌性の疼痛が収まった方もいました。幼少期のこころのきずが癒えた時に、慢性頭痛が収まった人もいました。その時はわたしはただの無力な傍観者で、なにも関与できていません。単純にわたしの実力不足といえばそれまでですが、鍼灸治療にできる限界、医療における限界、他人がしてあげれる限界があります。病とは一体なんなんだろう。痛みの正体はなんなのだろう。わたしは鍼灸師なので鍼灸治療にこだわりたいですが、この問いは一生問い続けるんだろうなと思います。