無病息災という言葉があります。病気も災難もない人生。全人類の願いと言えるでしょう。つまり、現実にはなかなか無病とはいかないものです。どれほどリスクマネジメントをしようが、すべてを避けきることはできない。だから、無病息災という願いがありえるのです。現実の健康生活においては、無病ではなく「一病息災」という考え方が役に立ちます。ウサギと亀不調のない体力自慢のひとは、往々にして、自身の健康を過信しがちです。散々、不養生を積み重ねた果てに突如、大病をすることがあります。このような人が、高齢になってから生活を改めたり、自身の在り方を問いただすことは容易ではありません。特に生活習慣病などは因縁症と言え、知らずのうちに積み重ねてきた負債のようなところがあります。若いころから病気がちな方は、過信することなく、慎ましく生活する努力をしていたりします。無理はせず、なにが自分に合い、合わないのかを知ろうと努力をしています。この事が特に重要です。その積み重ねをしてきた方は、年を重ねるほどにむしろ元気になることさえあります。ウサギと亀のように、先々で結果が逆転することがあります。健康法よりも大切なことなにが自分に合い、合わないのかを知るということはどういうことなのかと言うと、それはすなわち、自分自身を知るということにほかなりません。この事は、こまかい養生法の知識よりももっと本質的で、大切なことです。「甘い物を食べてはいけない」等とはよく言いますが、こういう知識は、甘いものを止められない自分がいることを無視しています。なぜ止められないのか、甘いものが必要なのか。食べたいと思う自分のこころを観察してみてください。そうすると実は、甘いものが食べたいんじゃなくて、「休みたい」が本当の気持ちだったりします。それを無理に押しつぶして頑張ろうとするから、甘いものが必要だったりすることがあります。このように知識が先行すると自分の気持ちが分からなくなることがあります。それを健康とは言いません。自身を知ることで、世界の見え方が180度変わることがあります。そうして、病を得た意味を深く理解できることがあります。そうして、劇的に回復した人たちを何人も知っています。病むことはやむをえないお釈迦様は、避けられぬ四つの苦しみとして、生老病死を挙げられました。生まれ死ぬことをコントロールできぬように、老いることも、病むことも避けられないという教えです。どれほど善徳を積もうが、人は老い、死にます。どれほど善徳を積もうが、人は病むことがあるし、災いも避けられません。生まれることも、老いることも、死ぬことも、すべて大いなる生命の働きによるものです。例外もありますが、基本的には同様に、病むことさえも大いなる命がなせる業だという面があります。病を避けることはできませんが、すこし見え方が変わると病は病でなくなることがあります。それを「病が役目を終える」と表現することもできます。そういった病の側面はあまり語られることはありません。癌は最も恐れられる病のひとつです。がんになる、病むというのは災難としかいいようがありません。ですが、自身の生活や人生を振り返るきっかけになり、救いになりうることがあります。私は「がんになってよかった」という言葉を聞いたことがあります。信じがたい事かもしれませんが、ひとつの病を得ることによって、返って自分を助けることがありうるのです。それを一病息災といいます。